年間 A年  2011年



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24 〜王であるキリスト



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                 年間第24主日 A年2011-9-11 グイノ・ジェラール神父

        シラ 27,30-28,7  ローマ 14,7-9  マタイ18,21-35

  今日の全ての朗読は、恨み、復讐、怒り、捧げられた命、そして、赦しについて述べているのです。 知恵のあるシラ、パウロ、イエスは人間の感情を捨てて、神の振る舞いを身に付けるようにと、私たちを招いています。 いくら、これを実現するのが難しくても恨みから長く続ける和解へ、復讐から真心による赦しへ、怒りからキリストの謙遜を反映する柔和へと移るために、具体的な方法を見つけなければなりません。

  知恵のあるシラは、簡単な和解への道を教えます。 それは、恨み、怒り、復讐の野望を忘れるために、自分の死、そして神の掟、さらに自分が受ける裁きについて考えることです。パウロはキリストを真似て、キリストご自身の気持ちを自分のものにし、私たちがキリストの命に生きることを、要求しているのです。イエスは惜しみなく、限りなく、赦すことをはっきりと教えているのです。私たちに与えられた悪が、重大であろうと無かろうと、私たちは完全な赦しを与えるように覚悟しなければなりません。

  赦すことは、生き残るための唯一の方法と言えます。 もし、全人類が、暴力の渦に入り込み、報復に対する復讐によって答えるなら、あっと言う間に、全人類は袋小路にぶつかり、出る事が出来なくなります。 私たちは被害をこうむる限り、その悪は自分の中に絶対に入れません。 むしろ、この悪に対して反撃するなら、悪は自分の中に深く入り込みます。 同様に、赦すことをずっと拒否する人や、自分の犯した悪を認めたくない人は、病人であり、彼はキリストの弟子の状態から、サタンの見方に変化しています。

  効果的に悪を止める唯一の方法は、赦すことです。 確かに赦す人たちは、自分の深いところまで、傷ついている人たちです。 例えば、虐待された年寄り、自分の愛を裏切られた妻、子供たちから見捨てられた、または、置き去りにされた両親など、非常に傷ついている彼らは、長い間「絶対に赦せない」と思い込んでいました。 しかし、ある日、赦すために自分の苦しみを乗り超えました。 この決意によって、彼らは自分に悪を与えた人に、悪いことを絶対に、望まないことを証ししました。 過去は彼らを苦しみの中に閉じ込めていたけれども、赦すことによって彼らは受けた暴力を阻止していました。 惜しみなく赦すことで、この人たちは希望に未来の扉を開き、自分たちが誠にキリストの弟子であることを証ししています。

  たくさんの説教の中で、アウグスチヌスは赦しについて、長く述べています。 彼は次のように書きました。 「もし、あなたが、真心から兄弟を赦す決意を持っているとしたら、それは良いことです。 しかし、祈ることがあなたには残っています。 兄弟があなたに赦しを願うように祈りなさい。 なぜなら、相手が『ごめんなさい』言わない限り、それが、彼の利益にならないことをあなたは知っていますから。 だから、彼のために、一生懸命に祈りなさい。それは平和を保つためにしなければならないことです」。 使徒パウロも、同じ態度をとるように勧めています。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。」(コロサイ 3,13-14) 

  しかし、パウロが言われていることを実行しても、問題は残るのです。と言うのは、赦す人と赦される人に与えられた赦しは、重大な結果をもたらします。 「あなたを赦します」と言う人は、創造的なことばを、かつ、人間関係を 完全に立て直すことばを 述べています。 赦す人と、赦される人は、もはや、前のように生きることはできません。 今から後、彼らは一緒に完全な刷新への道を歩むべきです。 まして、彼らは、自分の心と思い出から、全ての偏見と互いの不信を捨てなければなりません。

  イエスが赦しを求めるのは、創造主なる神の、最初の計画の中に、赦しが根差しているからです。 私たちは神の似姿として、創られたからこそ、神が完全であるように、私たちも完全であることを、要求しています(マタイ5,48)。 このことを考えると、私たちがちょうど、借金を返せない、僕の立場に置かれていることがよく分かります。 神が私に望んでいるものを返せないなら、イエスが示す唯一の方法として、他者との問題を解決することしかないことをよく理解しましょう。 神はいつも私たちが出会う隣人の味方です。この隣人が、良い人であろうが、そうでなかろうが問題ではありません。日ごとに、私たちは一緒に神に向かって歩んでいますから、時間がある限り、私たちは 遅くならないうちに、真心から互いに赦し合いましょう。ねたみ、復讐、怒りと言う、サタンの武器を遠くに捨てましょう。そして、赦すことによって、イエスと共に、神が憐れみ深いように(ルカ6,36)私たちも憐れみ深くなりましょう。 神が完全であるように、私たちも完全な者になりましょう(マタイ5,48)。  アーメン。



                   年間第25主日 2011-9-18 A年  グイノ・ジェラール神父

         イザヤ55,6-9  フィリピ1,20c-2427a  マタイ20,1-16

  今日の 福音のたとえ話は、ぶどう畑のために働きたいと思っている人々を探し求めるある家の主人の姿を描いています。 この主人は、神ご自身です。 母親の心を持っている神は、ご自分の子らがどこにいるか分からないとき、また、子らが自分の方から離れようとしている時に、神は必ず彼らを探しに行かれます。

  聖書の最初のページは、罪人の状態である自らの姿を見られないように隠そうとしているアダムを、探し求める神の姿を見せています。 「どこにいるのか。」(創生3,9)と、神は苦しみ叫びながら問います。 同じように、弟のアベルを殺したばかりのカインを、神は探し求めます。 不安に駆られた神は「おまえの弟アベルは、どこにいるのか。」(創生4,9)と、尋ねます。 イスラエルの歴史を通して、ご自分のそばに、不実で頑固な自分の民を平和と赦しの内に集めるために神は我慢強く探し求めるのです。

  イエスのたとえ話は、神を次のようにたとえています。 高価な真珠や宝物、また迷った羊や放蕩息子を捜し求める人のように。 また、イエスはドラグマを失った女や、正しい裁判を要求するやもめや、ひたすらに愛娘の回復を願う異邦人の女のように、ご自分の父なる神を描きます。 そしてイエスは自分について、また自身が果たすべき使命について語る時、次のように表明します。 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19,10) 使徒聖ヨハネの証しによると、洗礼を受けたイエスが、すぐに自分の弟子となる人々を探し求めたことを教えています。 また、イエスご自身が信仰を持つ人々を、また信仰を持ってご自分の衣服に触れた人々を探し求めています(マルコ5,32)。

  預言者イザヤは、私達が父なる神とキリストの振舞いを取り入れるように招いています。 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」(イザヤ55,6)。 一日中、自分のぶどう畑のための働き手を捜したたとえたとえ話の人は、神を見つけるために、時間はいつでも構わないということを私達に教えています。 朝早く、昼、また夜遅く、さらには暗い深夜でも神を捜し求める人は、必ず神を見つけます。イエスご自身がそれについて確信を持って宣言します。 「探しなさい。そうすれば見つかる・・・探す者は見つけ」るからです(マタイ7,7-8)」。 ただし、私達は忍耐と勇気を持って神を探す決心をしなければならないでしょう。

 「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(コロサイ3,1)と、勧めるパウロは、今申し上げた決心を持っています。 パウロは、天にいるキリストのそばに行きたいのですが、地上で自分に与えられた使命を果たさなければなりません。 「(私は)二つのことの板ばさみの状態です・・・キリストとともにありたいと、せつに望んでいます。そのほうがはるかに良いからです。しかしあなたがたのためには、私がこの世に留まることがもっと必要です」(フィリピ1,23 フランシスコ会訳)と、パウロは語っています。 3年もの間、罠を仕掛けてキリストを殺そうとたくらんでいたユダヤ人達は、パウロに対しても同じもくろみを持っていました。というのも、キリストを信じる者となってから、パウロは至る所で、復活されたキリストを堂々と証しました。 このことは、ユダヤ人達を立腹させました。 パウロを黙らせるため、また捕らえて殺すために、ユダヤ人達はあらゆる手段を探し求めます。彼らの内には、「パウロを殺すまでは、飲み食いしないという誓いを立てた(使徒23,12)」者までいます。

  この間パウロは、キリストによって、キリストの為に生きる自身の喜びを宣言します。自分がキリスト者に対する残虐な迫害者であった時、イエスご自身がダマスコへの道で自分を探しに来られたことを、パウロは決して隠しませんでした。 キリストがパウロを見つけたから、そしてパウロがキリストを見つけたからこそ、今から後、キリストと自分を引き離すものがないことをパウロは知っています。 「災いか、苦しみか、迫害か・・・他のどんな被造物も(ユダヤ人も)、イエス・キリストによって示された神の愛から、私を引き離すことはできない。」(ローマ8,35-39 引用中の括弧部分は解釈を述べるための補足 フランシスコ会訳)と、パウロは聞く耳のある人に確信を持って宣言します。
 
 ここで、一つの神秘があります。 ある人が、生涯に渡って神を懸命に探し求めるのに中々見つかりません。 他のある人は、全く努力せずに、人生の幼い時から、神との出会いというこの上なく貴重な恵みを受けています。 他の人はまた、神から離れないように、あるいは信仰を失わないように、勇気を持って戦い続けなければなりません。 しかし最後に、皆が受ける報いは同じものであると、キリストは今日のたとえ話を通して教えているのです。 母の胎内にいる時から選ばれた預言者エレミヤや洗礼者ヨハネは、キリストと共に十字架につけられた強盗と同じような報いを受けるのです。 幼い時洗礼を受けた人も、また大人になってから洗礼を受けた人も、死の直前に洗礼を受けた高齢者と同じ報いを受けます。 確かに、神ご自身が皆の永遠の報いとなります。 ただし、升・どんぶり・壺が、その器の大きさに応じていっぱいに満たされるように、神を探し求めた人は、その人の努力に応じて満たされるでしょう。 ですから、「神を見出しうる時間がある限り、神を探し求めるように急ぎましょう。」(イザヤ55,6 解釈を分かりやすくするための別表現)何故なら「天には大きな報いがある。」(ルカ6,23)からです。アーメン。



                 年鑑26主日 2011925 A年  グイノ・ジェラール神父

        エゼキエル18,25-28  フィリピ2,1-11  マタイ21,28-32

  悪を行なっている人々の死を神は、絶対に望まないことを預言者エゼキエルは保証します。むしろ、罪びとが回心して自分の魂の救いを得るように、神は出来る限りのことを行ないます。使徒パウロは、どのようにキリスト教的に生きるかについて、考えているのです。彼は、キリストの生き方を模範とし、私たちが謙遜、お互いの理解、そして忍耐強い人となるように励ましているのです。パウロが、私たちの間で信頼と単純さと友情の繋がりをつくりあげるように望んでいます。

  福音があるたとえ話を通して、預言者エゼキエルの教えを取り上げています。不従順である息子は、結局回心してから お父さんの意志を行ないます。もう一人の息子は、お父さんに対して嘘をついた上で、ますます自分の罪と頑固な態度に落ち居ります。このたとえ話を通してイエスは、神と人々に対する偽善の態度から離れて、真心から彼らが回心するようにファリザイ人の人々を招いています。確かに回心出来るように、神が彼らに充分の明白なしるしを与えたからです。

  洗礼者ヨハネの証しや数え切れない徴税人と罪びとの回心やキリストご自身の奇跡でさえ、まだ時がある限りファリザイ人や律法学者たちやエルザレムの大祭司たちが回心するように急()き立てています。預言者エゼキエルは、はっきりと神の裁きを告げ知らせます。と言うのは、正義に背いて、即ち真理を拒んで、見えないように自分の目を隠し、聞こえないように自分の耳を押える人は、必ず死に、また天の国に入ることは不可能です。

  イエスはファリザイ人を嫌ったりしません。むしろ、彼らの頑固な態度を気の毒だと思っています。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)とキリストが彼らに言います。同様に、犯した罪を認めた罪びとを決してイエスは無罪としません。むしろ、権威を持って彼らに次のように命じます。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8,11)。このように言う事によって、イエスは罪びとの心の中に、今までの生き方を変える意志があることを認め、彼が回心を実現するように、御自分の希望を打ち明けます。イエスは私たちの回心への努力を見た途端、直ぐ罪から私たちを解放します。イエスは、誰に対しても彼の過去や彼の罪の中に閉じることはしません。キリストが来られたのは罪びとのためであり、彼らが回心して、赦しの喜びのうちに神に戻るためです。

  今日、エゼキエル、パウロ、イエスも私たちの最後の運命が絶対に決められていないことを保証します。どんな恐ろしい過去を持っていても、またどんな考えられない罪を犯していても、必ず救いの可能性があります。生きている限り人は、自分を新たにし新しい道を歩むことが出来ます。「回心して、そうすれば生きる」(エゼキエル18,32)私の未来は自分にかかっているのです。日毎に私たち一人ひとりは、自分を縛る鎖を鍛え作るか、あるいはそれを壊すか、自由に決めるのです。

  今日の福音は、放蕩息子のたとえ話のように始まっていす。「ある人に息子が二人いた・・・」ここで、キリストの考えではこの二人の息子はただ一人の人だけです。と言うのは、この二人が私たち一人ひとりを表現しています。ある時、私たちは最初の息子と同じように「いいえ」と言ってから、結局頼まれたことを実現する人です。他の時は第二の息子のようになってしまいます。口先では気前が良いけれども 具体的な行いがそれを伴なわない限り 形式的な言葉がただ完全な偽りです。「子どもたちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(Tヨハネ3,18)と使徒ヨハネが書きました。

  先ほど申し上げたように、イエスは人々を過去の中に閉じ込めることはしません。では、私たちはどうでしょうか?やはり私たちは自分たちの偏見から離れることが難しいです。回心しようと努力している人を見ても、実を言えば、私たちは彼の誠実さを信じません。同じように、正しい人がとんでもない悪事を行うことが出来ることについても中々考え付きません。私たちが他の人たちが回心するように望む、しかし自分自身の回心のためにはあまりにも無関心です。はっきり認めましょう、この教会の告解室の前で渋滞の状態がないことを! 私たちは、他の人よりも善い人ではなく、彼らと一緒に罪びとです。私たちは皆、救い主イエスの手を握りながら、新しい心を持って父なる神のところへ戻る必要性があります。

  私たちが宣言する信仰は信仰の具体的な行いとなるように、私たちの言葉と行いが聖霊で満たされるのは肝心なことです。真理と聖性の聖霊が、私たちの普通の生き方をキリスト教的な生き方に変化します。私たちがいつも歌っている詩編119番が証ししているように「神のみ旨を行なうことは、私の心の喜び」ですから、私たちにとってそうであるように努力し、頑張りましょう。アーメン。



             年間第27主日 2011 10 2 A年 グイノ・ジェラール神父

        イザヤ 5,1-7 フィリピ 4,6-9 マタイに21,33-43

 預言者イザヤは、良い実を結ばないぶどう畑について語っています。 その持ち主は、これを破壊しようと考えています。 そう言いながら、預言者イザヤはイスラエルの民の態度が、神をうんざりさせていることを説明しています。 神は何世紀も前から限りない愛を持って、全世界に救いを与える聖なる民を創ろうと努力されました。 しかし、選ばれたイスラエルの民は異国の神々を礼拝し、異邦人の振る舞いを真似し続けています。 彼らはモーゼを通して神が委ねられた律法をずっと無視しているのです。 結局神の民は偶像礼拝の民、神に逆らっている不忠実な民となってしまいました。 

  神がもう我慢できないと言うことを、預言者イザヤはイスラエルの民に向かって忠告します。 つまり神は約束の地から御自分の民を追い払い、遠く離れた異邦人の国に彼らを追放されます。 このひどい状況の中でイスラエル人たちが、どれほど神の希望をぺちゃんこにし絶望させたかを理解して、反省するだろうと神は期待されました。 追放されたイスラエル人たちは2つの解決策の内、どちらかを選ばなければなりません。 すなわち、それは異邦人の国で一生奴隷として死ぬまで留まるのか、それとも神がもう一度与えようとしておられる約束の地で、神の親密さのうちに、神の自由と聖なる民として 生き続けるように回心するのかを決めなければなりません。 

  イエスも、あるぶどう畑について語っているのです。 このぶどう畑を管理する人たちは、残虐でためらいや憚(はばか)るところがない人です。 彼らが厳しい罰を受けてからぶどう畑は他の人に委ねられるでしょう。 事実イエスはこのたとえ話を通して律法学者、ファリサイ派の人々、大祭司たちが神の民から搾取していることを説明します。 権威を振りかざして傲慢な彼らは、弱い人たちを守り救いまで導く神を公に軽んじて完全に無視しています。 律法学者、ファリサイ派の人々、大祭司たちは「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せている。」 もっと悪い事は「人々の前で天の国を閉ざして、自分たちが入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」(マタイ23,513)からです。

  そう言う訳で、イエスは天の国の鍵をペトロに与える事にしました。 強盗の巣となっているエルサレムの神殿は破壊された後、地の果てまで全ての民に救いをもたらす使命を弟子たちが受けるのです(マタイ28,19)。 父なる神と同じようにイエスも人を罰しません。 むしろ民の責任者を自分の犯した罪の前に置くだけです。 彼らがキリストを通して与えられる救いの恵みを受けるために、異邦人と同じように回心するか、それともかたくな心と頑固な態度のために死ぬのかを選ばなければなりません。

  私たちにとっては、イスラエルの民の歴史と、間違った過去を裁くのはとても易しいことです。 また何世紀にも渡って、キリストの教会が示した怪しい挙動や行いを非難することは易しいです。 同様に「自分の目にある丸太を見るよりも、相手の目の中にあるおが屑を取り除く」(マタイ7,3)ことも易しいです。 けれども私たちは どうしても 私たちの生活態度が、神の望んでいる生き方と合うかどうかを反省することは 絶対に必要です。 

  イスラエルの民と同様に、私たちはたびたび神の呼びかけに対して無関心で、無頓着な態度の者です。 キリストに忠実に従うよりも神のことばを実現するよりも、私たちは世間の流行を吸い込み一般の人のように生き続けています。 このように私たちが自分たちと神の間で大き過ぎる空間を作ってしまいます。 残念ながらわがままに生き続けることによって、大勢のキリスト者が、自分の良心と神を遠くまで追放させています。

  ぶどう畑の悪い農夫たちのように、神が私たちに委ねられた物事を、自分たちが持ち主であると錯覚して思い込んでいます。 しかし私たちは何も所有しません。持っている物は全て他人に奉仕するために神から預かっているのです。 それにも拘らず大勢の司教と司祭は次のように言いがちです。「私の教会、私の信者、私の教区、私に従うべき司祭」と所有しているかのように言っています。 同様に、信者たちは 教会の進行にもかかわらず「私の信仰」と言っています。私たちが行おうとしている物事も自己満足を満たそうとしているのではないでしょうか。

  そのために私たちは絶えず自分の生き方について、考えざるを得ません。 さもないと私たちの捧げる祈り、賛美、礼拝がまずくて酸っぱいぶどう酒のようになるに違いありません。 もし私たちが自分の利益だけを追求するなら、神は私たちが回心するまで放っておかれます。 かえってぶどうの木であるキリストにきちんと結ばれるなら、父なる神は良い農夫として私たちを手入れしてくださるから、必ず聖霊の力によって神の心を喜ばせる、良い実と芳醇なぶどう酒を生産することが出来るでしょう。 ですから私たちは互いにキリストと結びあって、一緒に父なる神の聖なるぶどう畑となりましょう。アーメン。



              年間28主日 2011-10-9 A年  グイノ・ジェラール神父

         イザヤ25,6-10  フィリピ4,12-14, 19-20  マタイ22, 1-14

  今日、神はご自分の喜びを分かち合うために、私たちを宴会の食事に招きます。 ぶどう酒があふれるほど、この食事は豪華なごちそうです。 「さあ、祝おう、喜び躍ろう」と預言者イザヤは叫びます。 同様に、福音のたとえ話も私たちを王にふさわしい宴会に招いています。 神はどうしてもご自分の喜びと幸せを分かち合いたいので、神の招待は全ての人々に及びます。 ところがご存知のように、自分に与えられた招待を都合の良い言い訳をして、辞退する信者がいます。 

  たとえ話の神の国は、天国でもないし、永遠の命でもありません。 この国は私たちの間にあります(ルカ17,21)。 この国は今日、神が私たち一人一人に与える賜物です。 そう云うわけで、イエスは 神の国の賜物を披露宴の食事にたとえます。 披露宴と言うのは、愛の誓いの最後の仕上げであると同時に 愛で満たされた人生の出発点です。 ミサはこのように素晴らしいものです。 しかし、残念ながら、日曜日のミサを考える時、無意識に わずらわしいとか、つまらないものと思ってしまいます。 こんな風に考えると キリスト者の信仰生活は 味気なく、邪魔な重荷として受け留めてしまいます。 そのために、わざと、イエスは 披露宴のイメージを利用して、神が与える喜び、祝い、楽しい分かち合い、終わりのない交わりにと思いを膨らませて、私たちに考えさせているのです。 確かに、神は全てを捧げてくださいます。 言い換えれば、神ご自身がごちそうを私たちにおごってくださるのです。 私たちはこの招待に応えて、喜びのうちに入ることが出来るように、この招きに自由にならなければなりません。

  ただし、神の招待に賛成をするなら、私たちはどうしても 良い人と悪い人と一緒に 披露宴に入ることを承諾しなければなりません。 疑いも無く、私たちは皆、好きな仲間だけで宴会の席に着きたいと思っています。 ところで、礼服を着なかったある客が、見捨てられたことを どのように理解できるでしょうか。 たとえ話の終わりの部分は、「神が良い方、憐れみ深い方だから」と言って、回心するための努力をしない口実を見つける人に対する 重大な忠告です。 追い出された客は、感謝せずに、神のあふれるばかりの気前のよさを利用する人を示し、また、自分の内に 神に対しての飢えと渇きを望まない人々の象徴です。 王がこの客を外に追い出すことによって、彼がもと出て来た所に追い返すだけです。 つまり、こせこせした世界、喜びと期待のない世界、死者を包む亜麻布で、既に覆われた暗闇の世界に客は追い返されました。

  毎日曜日、私たちは神の小羊の披露宴を祝うために、私のいさおしではなく神の愛によって祝宴に招かれています。 ギリシャ語の「エウカリスチア」の言葉は「感謝する」ことを意味します。 奉献文の言葉によると「いつも、どこでも神に感謝を捧げることは 誠に尊い大切な務めです」と言うのは、神の前に留まるために肝心な条件です。 洗礼によってキリストの栄光の衣を身に着け、キリストと共に一つになった私たちは イエスの体ですから。 キリストに生きることは 祝宴の礼服を着ることです。 そうであるなら、どうして私たちの心からの感謝が溢れないのでしょうか。 たとえ話の礼服は このことを表しているからです。 感謝することは「ありがとう」と言うよりも、神と一つになるほど 神の愛が私たちを完全に満たすのです。


  慈しみと思いやりを持って、神がご自分の子の宴会の食事を準備しました。 神が全てを与え、ご自分の全てで私たちを満たそうとするから、私たちは感謝しなければなりません。 披露宴の礼服を身に着けることは、全ての天使、聖人と共に心を込めて歌うことです。 また、それは、愛の挨拶を交わしながらほほえむことです。 さらに、教会の沈黙を尊重することでもあります。 披露宴の礼服を着ることは、ミサ祭儀の間に、自分の携帯電話を消すこと、またいつも避けている人のすぐ傍に座ることです。 そして、キリストの体をいただいてから 静かに神に感謝することです。 このような取るに足りないと思えるような小さなことは、披露宴の礼服と同じく美しいです。

  主の喜びを分かち合うために、その食卓に招かれた私たちは皆、その招待を神に感謝する個人的な応えをするなら、必ず喜びの雰囲気の中に容易に入ることができます。 ミサ毎に神はイエスを通してご自分の喜びと平和を与えるのです。 ですから、満腹している人のように、しかめっつらをせずに、かえって神と再会する喜びを主に捧げましょう。 「主に自らの喜びをゆだねよ。 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」と詩編374節は証しします。 もし、ある人にとって、ミサと言う感謝の祭儀がわずらわしい泉であるなら、彼らは 神に出会うたびに、神に何を捧げるかについて、真剣に自問すべきです。 感謝と賛美が 私たちの心を満たす時、神は 私たちの体も喜びに躍るように 必ず、ご自分の歓喜と平和を私たちの心に注ぎます。 確かに、詩編843節は次のように証しします「命の神に向かって、私の身も心も喜び叫びます」。 ですから、今日、心を閉ざさずに、大急ぎで預言者イザヤの誘いに応えましょう。 「さあ、祝おう、神に喜び躍ろう」 神の家に皆が一緒に集まっている私たちは 主イエス・キリストによって喜びと賛美の歌によって、神に感謝
しましょう。アーメン。



              年間第29主日2011-10-16A年 グイノ。ジェラール神父

        イザヤ45,14-6 Tテサロニケ1,1-5b  マタイ22,15-21

  今日イエスは、互いに敵対している人々の企みに直面されます。皇帝の味方であるヘロデ派の人々と、彼らに対立しているファリサイ派の人々は、キリストを罠にはめるために手を結びます。それは、「皇帝に税金を納めるのは、必要でしょうか」という避けられない罠です。もしイエスが「はい」と答えるなら、ローマによる統治に苦しめられているユダヤ人から見捨てられるでしょう。また、もしイエスが「いいえ」と答えるのなら、イエスを革命の煽動者として、直ちに死刑にできるのです。

  イエスは、彼らの偽善をはっきりと指し示しながら、この罠を巧みに避けます。何故なら、彼らは皇帝の肖像が刻印された銀貨を、彼ら自身のポケットから出しているからです。彼らがイエスに見せた銀貨の表には次のように刻まれていました。『神であるティベリウス皇帝』。実際、当時のローマ皇帝達は、自分達に『神』という名で呼ばれるように、さらには国民が自分達を神と同等に礼拝するように命じていました。このことを、イエスは承諾できませんでした。皇帝は神ではないからです。

  イエスは、ご自分の答えが決して彼らを喜ばせないことをよくご存知でした。イエスは、真理そのものです。自分の像が刻まれた硬貨を発行する権利のある皇帝が、税金としてその硬貨を要求する権利があることを、イエスはお認めになりました。神に対しても、同様のことが言えます。神の御姿に似せて創造された私達は、神が無償でお与えになった物以外は、何も持っていません。神は、全てを私達に要求する権利を持っておられます。それ故、皇帝ではなく神だけが礼拝を受けるべきなのです。皇帝もいつか、私達と同じように神の前で自分のしてきたことに対し弁明しなければならないでしょう。「私が主、ほかにはいない。」(イザヤ45,6)と、神が言われます。

  お金の力は、誰にも永遠の救いを保証しません。墓まで、富や金庫を運ぶことは、何の役にもたちません。人間は金持ちであれ貧乏であれ、皇帝であれ奴隷であれ、絶えず神と共に永遠に生きるために、神の似姿に想像されたことを思い起こさなければなりません。貨幣に刻まれた皇帝の肖像は消え、また次々とあらゆる文明も消え失せるでしょう。けれども、救われても、また地獄に落とされても、神の似姿に創造された私達人間は、永遠に神の印を持ち続けるのです。この消えない印を見て、私達は自分の生き方を正しい方向に向かわせるべきです。

  「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と願うイエスは、ご自分の教えの核となるものを、はっきりと私達に示されます。税金を納めるかどうかは、問題ではないのです。むしろ、神の国に入るかどうか、また神の味方になるかどうかを決定づけるために、イエスの教えを聞くことが大切なのです。この国は、父である神が王です。御子であるイエスは、この王国に入るための狭い門なのです。税金を課すことによってではなく、ご自分の無限の愛の印を与えることによって、神は全てを統治されます。この愛を、神はイエスを通して、全ての人に無償で差し出されます。残念なことに、キリストに敵対する人達は、それを信じることを拒んでいます。

  お金や皇帝は、自分に閉じこもった生き方の印
(しるし)であり、永遠の命のあふれるほどの豊かさの対極にある生き方の象徴です。この世では、お金が偶像になったのです。イエスは、私達がお金の奴隷である姿を示さないように願っておられます。私達はどうしても必要なものなのか、それとも余計なものなのかを見極めることによって、ただ神だけにより頼むことを学ばなければなりません。もし、物質的な物への絶え間ない追求が私達の信仰を養う妨げになっているのなら、疑いなく、私達は神に返すべきものを、皇帝に返してしまっているのです。

  信仰と知恵を持って、日常生活が要求する物事を理解するように、イエスは願っておられます。キリスト者となった私達は、同時に神とキリストの顔なのです。この神の反映を歪めることなく、またキリストの反映をぼかすことの無いように保つことは、私達の大切な使命です。私達の信仰生活の在り方を見る人が、それを通して、神のみ顔を仰ぎ見ることができますように。

  今日、世界宣教の日にあたって、全ての人が自分の心の内に刻まれている神の似姿を見出せるように祈りましょう。ローマのティベリウス皇帝の肖像よりも、神の似姿はそれぞれの人の内に深く刻まれているのです。ですから、お金の奴隷になっている人々、ただ自分の利益のためだけに国際的な金融危機を引き起こす銀行家、株式取引に没頭する人のために、特に祈りましょう。さらにホームレスや失業者、不正な搾取によって、正当な給料をもらえない人々のためにも祈りましょう。最後に遺産相続のために分裂し、仲違
(なかたが)いしている家族のためにも祈りましょう。私達は皆、神のみ顔ですから、世界宣教の日に当たって、私達が宣教師の心も持ちますように。そうすれば、私達の愛・希望・信仰の証しによって、出会う全ての人々は神を見出すことができるでしょう。アーメン。



              年間第30主日A年   20111023日  グイノ・ジェラール神父

           出エジプト22,20-26  Tテサロニケ1,5c-10  マタイ22,34-40

   神における信仰がいたる所で広がるように、使徒パウロは次のように勧めているのです。 先ず、キリストに倣い、次に聖霊の喜びのうちに全ての信者にとって模範となることです。 既にモーゼは、自分の周りに神の愛を具体的に示す方法を教えていました。 それは下心を抱かずに、偏見なしに、貧しい人、移民、孤独の人、やもめ達を愛することです。 丁度神が彼らを愛して助けて下さるように。そうすれば、イエスが与える二つの愛の掟を容易に実現するでしょう。

  この二つの愛の掟を私達は良く知っています。 たぶん神に対する掟よりも隣人に対する掟を容易に実現するでしょう。 例えば、献金すること、維持費を納めること、災害をこうむって全てを失った人を助ける為に責任を持って衣服やおにぎり等を与えることは、とても簡単です。 まして、もしそれを皆と一緒に行うならば。 しかし、心を尽くして、全てを尽くして、神を愛するために充分な時間を取るのは、至難の業であり、とても行いにくいです。 イエスが神への愛を第一に置かれるのは、それはこの愛が他のすべての真実の愛にとって、必要不可欠な条件であることを私達に示すためです。 このことは、もし私達が神と本当の親密さを持たないなら、私達が他の人に抱く愛は不完全だという意味です。

   主を祝い、神を賛美する為にいくら私達が一致していても、私達はいつも自分の心の中の気苦労や心配の虜になっていることを認めましょう。 今日のミサ祭儀の間にも、きっと私達の想像力は神がおられないところへ私達を遠くに引きずり込みます。 同様に、キリストの体をいただいてから、心から湧き出る言葉でキリストに感謝する人が、私達のうちにどれ位いるでしょうか。 きっと,キリストに一言も言わずに,自分の席に戻って来る人がいるでしょう。

  「あなたの神である主を愛しなさい。」 イエスは,どのような法律も私達に、愛する事を強要できない事をよくご存知です。というのは、法律によって強いられた愛は、愛ではないからです。 イエスにとって、愛は感情でもなければ、私達をよぎる一瞬の幸福の息吹きでもありません。 愛するとは、歩き回る道であり、あらゆる注意を込めて実現すべき計画であり、未来を作り出す壊れやすい建築でもあります。 神を愛するとはこういうことです。 それは信頼をもって、神の限りない愛を受け入れ、自分の特性と欠点をもって、余す所なく神に自分のすべてを委ねることです。 神の愛に対して真剣に自問する必要があります。神の愛を示す為に忠実に時間通りに教会に居るだけでは、充分ではありません。 信者が、神と出会うために自分の心と精神を整えようとミサの前に沈黙の時間を取らない限り、ミサが終わっても,来たままの状態で自分の家に戻るでしょう。 この人の心は神の飢えと渇きに潤されていなかったから、いくら神がとても近くにおられたにも関わらず、その人は枯れてしまった心で神から遠く留まっているでしょう。 もし、聖体拝領が目に見える効果をもたらさないなら、それは信者が自分の生き方、信じ方と希望の仕方を変えようとしない証拠です。 この聖堂で一緒に歌ったり、神に感謝したりすることは、とても良いことです。 しかし、自分の家で個人的に、また家族そろって、それを行なうことも肝心なことです。

  神を愛することは、神に絶えず自分自身を捧げることです。 神を愛することは、神の御言葉を聞き、教えられたことを自分の心に刻み、そしてそれによって生きることです。 神を愛することは、神なしに私たちが何も出来ないことを認め、同時に神を愛することを学ぶために 他人がどうしても必要だと承諾ことです。 ここでキリストの第二の愛の掟は第一の掟いと一致します。 隣人と共に、また隣人のために行う全ては 神を愛する助けになります。 確かに、神に示された愛が、いつも隣人への愛のうちに具体化されます。 同様に隣人に示された愛がどうしても具体的に神を愛するように人を導くのです。

  生涯、キリストは父なる神に対して、長い祈りを通して感謝しました。 同時にイエスは 絶えず自分の隣人に救いの手を差し伸べました。 ですから、使徒パウロが勧めるように、キリストに倣いましょう。 キリストにおける信仰を持っていない人に希望と力を与えようとする 模範的なキリスト者になるために 聖霊の喜びを願いましょう。 神への愛、隣人への愛の証しは、世界中、至る所で、信仰の火と神の救いの力をもたらしますように。 アーメン。



           年間第31主日A   2011年10月30日  グイノ・ジェラール神父

          マラキ1,14b~2,2b,8-10  Tテサロニケ2,7b-9,13  マタイ23,1-12

   キリスト紀元前450年に、神は預言者マラキの預言を通して、エルサレムの神殿の祭司たちの明白な不忠実をとがめて言います。 彼らは貧しい人を圧迫し、自分たちを良く見せるために、自分たちの知恵と権威を利用しています。 神殿の中で神に謙遜に仕えるよりも高慢になって、彼らはエルサレムへの道を歩きながら見せびらかす事を好んでしまいましたから。

  4世紀の後、イエスは自分の時代のファリサイ派の人々に対して、預言者マラキの非難の言葉を借りて彼らを厳しくとがめます。 彼らは他の人よりも優れていると思い込んで、厳しすぎる清さの掟に従っています。 その上、全く預言者たちの教えを承諾せず、ヘロデ王とローマの友たちであるサドカイ派の人々の教える権威を奪いました。 高慢な金持ちであるファリサイ派の人々は自分たちを弁明するために、律法を利用し、さらに、自分たちの言うことを守らない人や罪人を厳しく非難します。 イエスの話しだと、彼らはマラキの時代の悪い祭司と同じような厳しい裁きを受けるでしょう。 「彼らは民の全てに軽んじられた価値なき者とされ、神の道を守らず偏った見方で律法を教えたからです。」(マラキ2,9-10

  共同体の責任を受けた人々の振る舞いについて、使徒パウロは語ります。 「母親の柔和、忍耐、謙遜、愛情が 模範として彼らに与えられています。」 キリストの教会の責任を受けた人たちは皆、自らを捨てて、全ての人に自分を与える事を要求されているのです。 司教、司祭、修道者、信仰の篤いキリスト者、兄弟姉妹の奉仕のために召された人は皆、どうしてもパウロの言葉を自分のものとしなければなりません。 「私はあなたがたをいとおしく思っているので・・・自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。」(Tテサロニケ2,8)

  人の世話をする望みが、自分の内にある支配する意志を排除しなければなりません。 なぜなら、心の愛情は私たちが僕であることを忘れさせるからです。 「もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(ヨハネ15,15)とイエスは言われました。 信仰の兄弟姉妹に対する責任を持っている人は、敬意と光栄を望むよりも、キリストに倣う意志を強く望むはずです。 この点について、私たちは皆、回心すべきなのではないでしょうか。 他人に何かをさせることや、命令することは簡単です。 また自分が考えた通りに物事がうまくいかない時、わめいたり、非難することも易しいです。 お互いのうちに正しい必要な調和を見つけるために、神を私たちのイニシアティブの出発点とするのは不可欠です。 ですから、命の言葉であるイエスを 私たちの内に絶えず成長させましょう。 そして、最後に、聖霊が皆利益のために 私たちの霊的な進歩を教え導くことも 切に祈りましょう。

  共同体の中で特別の役割や使命を受けなくても、キリストの体の部分であるからこそ、私たちが今、話した事と関係があります。 自分が居る所に、つまり、家族的な雰囲気、仕事場、様々な集まりと共同体の中でも 私たち一人ひとりが キリストの柔和、忍耐、謙遜、憐れみを示すように召されています。 自慢せずに、人気者にならずに、人の注目を求めず、自分の意見を押し付けない、特に高慢に種を与えない事や、高慢を招かないことは日毎の戦いです。

   自分が無視され、批判され、排除されることを受け入れることによって 私たちは謙遜になります。 全てに対して全てのことに応えられないことを認める時、神の言葉が自分の内に根を下ろすことができます。 自分の正しさをはっきり弁明する言葉よりも、沈黙を守る方が神の言葉が私たちのために必ず実を結びます。 私たちを軽蔑している人に捧げる祈りが自分の心を満たす時、私たちは段々キリストに似る者となります。 そこで、聖霊が私たちから遠くへ寂しさと恨みを追い出してくれます。 そして、掻いた恥の傷を癒してくれるのです。

  確かにキリスト者であることは、簡単ではありません。 おまけに、神の国の門はとても狭いのです。 ですから、出来るだけ忠実に信仰に生きるため、詩編のことばを借りて神に次のように祈りましょう。 「主よ、われらが待ち望むように、あなたの慈しみをわれらの上に注がれますように。」(詩編33,22)  私たちが愛と信頼をもって互いが互いを受け入れることが出来るように、主イエスの助けを願いましょう。 教会と世界の中で重い責任を持っている人々のために、私たちが度々祈る事を聖霊が促してくださいますように。 大統領であろうと、司教、社長、議長、家の長であろうと 私たちは皆、自分の内に神に感謝する心、憐れみと友情で溢れる母親の心を育てて守りましょう。 主イエス・キリストによって。 アーメン。



             年間第32主日 A  2011116日 グイノ・ジェラール神父

         知恵612-16  Tテサロニケ,4,13-18  マタイ25,T-13

  「あなたがたは、その日その時を知らないのだから。」(マタイ25,13) とイエスは言われました。 占いと予測は知恵を与える事が全く出来ません。 使徒パウロも次のように正確に言い表しています。 「兄弟たち、その時と時期について、あなたがたには書き記す必要はありません。 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」(Tテサロニケ5-T)  世の終わりの時である終末論について勉強し預言する人たちは、はっきり言えば知恵のある人々ではありません。

   愛のうちに堪え忍ぶ事こそが知恵を与えるのです。 10人のおとめたちのたとえ話がそれを明らかに示しています。 彼女たちは一番綺麗な服を着て、自分たちの大事なランプを持って花婿を出迎えに来ました。 しかし彼女たちの中で誰一人も、花婿がそんなに遅れることは考えませんでした。 そのためにランプの油が足りなくなってしまいました。 私たちはこのたとえ話がどのように終わるかをよく知っています。 このたとえ話が教えるのは次のことです。 私たちが愛している人を歓迎するために良い準備をするのは大切ですが、同時にずっと待ち続ける方法を見つけなければなりません。良い出発をしても、終わりに成功が待っていなければ意味がないのです。

  じりじりと待ち望ませる方と10人のおとめたちは、キリストを待ち望んでいる私たちの共同体の象徴です。 そこでランプは洗礼の恵みを表し、油は私たちの人生の中にある聖霊の現存を示しています。 また10人のおとめたちを襲ってきた眠気は、時々私たちの信仰生活の中に入り込んでしまう悪い習慣や無関心、霊的な怠惰を指しているのです。 私たちは皆、体験していますから、祈らずに、神の事も考えずに一日中を過ごすのはとても簡単だと分かります。

   雅歌の5章の2節は次のように歌っています。 「眠っていても、私の心は目覚めています。 恋しい人がドアを叩いている声を聞いています。」 このようにキリストは絶えずご自分の妻である教会、そしてご自分の体である私たちを迎えに来られます。 最期の出会いの日はいつか、誰にも分かりません。 ですから忠実さと希望の油で受けた洗礼の恵みを養い続けることによって今、キリストと出会う準備をするのは肝心です。     全ての瞬間において、キリストを待つのが本当の知恵です。 キリストはいつも私たちのドアの前に立って、あきらめずに叩いておられます。 しかし眠っている私たちはその声を聞かないで、やっとドアを開けようと決心をした時、遅すぎたので雅歌の花嫁の状態になってしまうのです。 「恋しい人に、ドアを開こうと起き上がりましたが、恋しい人は既に去ってしまった後でした。」(雅歌5,5-6)

   私たちの人生の目的は神を知ることです。 この目的を目指して神は私たちを創造されました。 ですから、信仰のうちに目覚めている人のように、主イエスを待ち望む希望を持ち続ける必要があります。 私たちを死ぬほど愛してくださったキリストを待ち望みながら、彼が来られる時、全てが整えられているように準備することです。 そうすれば、私たちの心から絶えず次のような熱烈な願いが湧き出るはずです。 「主よ、来てください。マラナタ。」 私たちは知っています。 キリストがいつも私たちの所に来られることを。 ですから、キリストの訪れが私たちにとって感謝と喜びの泉となりますように。

   キリストを歓迎するために、イエスの知恵で自分たちの心を満たすように、私たちは主のことばを蓄えて、たびたび彼の御体と御血で自分を養うことをしなければなりません。 神の御言葉は人に知恵を与える油です。 キリストの御体と御血が、死の眠りから私たちを守り目覚めさせてくれる力となります。 疑いもなく私たちの信仰のランプはまだ消えていません。 私たちの善意の小さな灯火はきっと試練と疑いの暗闇の中で輝いています。 しかしキリストの御体と御言葉によって強められている私たちが、この世では信仰の小さな灯火の輝きでキリストの、み顔の輝きをほんの少し垣間見ることが保証されているのです。 いつか長い夜を待ち続けた期待の後に、ありのままに彼の顔を見るでしょう。 「私たちは今、既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。 しかし、御子が現れるとき御子を在りのままに見るからです。」(Tヨハネ3,2)とヨハネは言っています。

  5人のおとめたちが愚かだと言われています。 彼女たちは準備をしなかったから、愚かなのではなくて、むしろ彼女たちが花婿と共に、披露宴の席に自由に入ろうとしなかったから愚かなのです。 買い物に行くよりも、素直に中に入れば問題はなかったのです。 彼女たちは、自分の内に神への飢えと渇きを死なせてしまった人々を象徴しています。 このような人たちは、いつか神を歓迎する代わりにとんでもない選びを自由にする可能性が多いです。 神がいつも彼らの側におられるのに、愚かなおとめたちを真似て彼らは他の所に行ってしまいます。 アビラのテレジアが死に直面して次のように最期のことばを叫びました。 「わが愛する主よ、互いに見つめ合う時がやっと来ました。」 私たちも自分の心の中でこのようなキリストへの期待を持ち続けることが出来れば、幸いです。 そうすれば、私たちの死の日は披露宴の日のように、永遠の喜びの日となるに違いありません。 アーメン。



                 年間第33主日 2011-11-13A年  グイノ・ジェラール神父

         箴言31,10-1319-2030-31  Tテサロニケ5,1-6  マタイ25,13-30

   第一の朗読で紹介した女は、私達に模範として与えられています。何故なら「夫は心から彼女を信頼している。」からです。私達にとって、『忠実さ』という言葉は、ある人に対して誠実なつながりを持つことを表し また強い従属を意味しています。けれども聖書では、忠実さは、他者への揺るぎない、完全な信頼を意味しています。このように、神が「忠実な神だ」と言われるのは、私達がいつも神により頼むことが出来るからです。神が「真理」そのものだからこそ、神は私達に信頼を要求されます。神が私たちに示される信頼に対し、私達は神に対して同じ信頼を示さなければなりません。忠実な人、誠実な僕とは、神に対し盲目的な信頼を示す人です。今日のたとえ話に出てくる3番目の僕は、このような態度を示さなかったばかりか、かえって怠惰と恐怖のうちに、無理に避難場所を探し求めたので、全てを失ってしまいました。

  キリストが話されている『タレント』とは、私達が考えているような生まれ付きの才能や特性や能力ではなく、むしろ、具体的な金塊です。キリストの時代に 一つのタレントは、35キロの金塊です。そこから、1つのタレントを預けられた3番目の僕は、主人からどれほど多く信頼されたかを 私たちは理解できます。


  たとえ話の主人は、完全な信頼をもって、自分の財産の全てを僕たちに委ねます。今日の福音の中では、『預ける』という言葉が5回繰り返されています。長い旅をする前に、主人は僕達に完全な信頼を現わそうとしました。しかも、不思議なことに、旅から帰った主人は、預けた財産を取り戻そうとはしません。主人は、忠実な僕達に与えたものを全て、取り返すことはしません。ここでイエスが教えようとしているのは次の事です。神のために働くことと自分のために働くことは 一つの同じことです。神は、私達の活動にたいして、外面的な方ではありません。私達のすること全てに神と深い絆があるからこそ、神は私達に全てを与えてくださいました。何も持っていない僕は、神が与えられたもので、何一つ創り出すことのできなかった人々の象徴です。福音の中でずっと、働くこと、活動すること、実を結ぶことに私達は招かれているのです。神に信頼されているから、私達が 神と共に、神と同じように創り主になるために、神は持っているもの全てを、私達の手に委ねました。そのために実を結ばない人や「持っていない人は、持っているものまで取り上げられる」のです。

  キリスト者は、自らの人生と未来に対して責任を負います。キリスト者は、神に対する奉仕の中で、活動的で責任のある忠実さを示さなければなりません。霊的な生き方の人は、力と想像力の泉です。神から委ねられたものを保つために、私達は絶えず、それを増やし、発展させ、拡張させなければなりません。神は、必ずしも委ねたものを、より多く増やすことを望んでいる訳ではありません。けれども、せめて受けた時よりも、ほんの僅かでも増えることは望んでおられます。

  自分の受けた賜物を実らせるには、人は独りぼっちになってはいけません。誰かと、自分の信仰、祈り、考えを分かち合うことによって、私たちは 神への信頼と忠実さを支える新しい力を、容易に得られます。信仰の豊かさを分かち合うことによって、私達は新しい道を切り開きます。その道を歩むことによって、私達の信仰は強くなり、従って神ご自身の喜びが 私達自身のものとなります。「忠実な良い僕だ・・・主人と一緒に喜んでくれ!」と。

  過ぎ去る時は、命の光への昇天です。キリストが来られる時、この光がはっきりと示されるでしょう。そこで、使徒パウロは一刻も早く「光りの子として」生きることが大切であると教えています。私達は皆、光の武器を手にとって、キリストを衣として身につけるべきです(ローマ13,14)。すなわち、私達はキリストの考え、言葉、行い、気持さえ自分のものにし、キリストの命によって 私達は生きる必要があるのです。この点について、時間がある限り、私達は 注意深く、目覚めて、警戒を強めなければなりません。私達は「光の子、昼の子だからですから」(1テサロニケ5,5

  「私は世の終わりまで毎日一緒にいる。」と、神が言われたが、私達はよく、神が留守にしているように感じます。それは、私達が自由に振舞うようにと神が望まれるからです。しかし、気を付けましょう。 主を見なくても、神はいつも、私達の個人的に決意と行いについて共におられるのです。神は、私達の幸福を望んでおられるからこそ、いつも私達を通して、私たちによって働かれます。そういう訳で、たとえ話の悪い僕のように、神を恐れる必要はないし、また、神を軽んじることを防ぐ方が良いとお分かりでしょう。恐怖に縛られた たとえ話の悪い僕は、主人が厳しい方であると思い込み、主人が蒔かなかった所で刈り入れをすることを知っていたにもかかわらず、恐怖のせいで何もしませんでした。そればかりか、自分の怠惰を弁明するために その主人をひどく冒涜してしまいました。

  私達は、神は愛であると知っています。ですから、恐怖から信頼へ、怠惰から行動へ、移らなければなりません。信頼と無償は、愛の豊かな雰囲気を作りだします。「誰でも持っているものは、更に、与えられて豊かになる。」(マタイ25,28)神は、ご自分の愛の計り知れない宝物を私達に預けたので、私達はそれをもっと豊かにする責任をもっています。光の子として、自分の人生をよく管理することを学びましょう。確かに、神の愛は 私達の手の中にあり、好きなようにそれを利用することができます。しかし、次の事を忘れないようにしましょう! 神の期待に答えようとするなら、私達の努力は決して空しくはならないでしょう。実は、神は もどかしさをこらえて、私達に次のことを叫びたくてたまらないのです。「忠実な僕だ。よくやった。私と一緒に喜んでくれ。」アーメン。



               王であるキリスト  20111120日  グイノ・ジェラール神父

           エゼキエル34,11-1215-17   Tコリント1520-2628   マタイ25,31-46

   典礼歴年が終わります。今日の朗読は神を良い牧者として見せます。預言者エゼキエルにとって、神はご自分の群れをとても良く世話をする羊飼いです。この牧者は離れた羊を探し、傷ついた羊の面倒を見る。そして、自分の傍に群れ全体を集めて、その群れを憩わせる牧者です。しかし、エゼキエルの話の終わりに、この牧者はとても厳しい審判者として現われます。

   第一の朗読はここで終わりました。しかし、もう少し読むと、神の厳しさの理由をよく分かります。雄羊と雄山羊は病気の羊を角で突き飛ばした上で、わざと、牧者が自分の群れに与えた新鮮な草を踏み荒らし、澄んだ水を足で泥まみれにしました。そこで預言者エゼキエルは次のことを忠告します。即ち、弱い者であろうと、病気の者であろうと、元気な者であろうと、強い者であろうと 、同胞であり、自分に似ている者を虐める人々に対して、神が憐れみのない神となるのです。

   イエスはわざと預言者的な教えを通して、しかし,もっと具体的に、もっと詳しく預言者エゼキエルの教えを借りています。イエスも忠告します。 誰であろうと、同胞であり、自分に似ている者に対して、即ち人間に対して雄山羊のように振る舞う人は、一番厳しい罰を受ける。これについて私たちはよく考えなければなりません。と言うのは、弱い人でさえ、いつか、非人間的な振る舞いを行なうことが出来、まるで、人に対して山羊のようになる可能性があります。やはり 暴力や軽蔑の態度を見せることが 強い人と権威ある人の特徴ではありません。例えば、病気で自分の世話をする人に対して、暴力的で邪険な口調で喋る入院している患者たちが多いです。 また、ホームレスの人々口から、自分を助ける人に対して山羊の角ように人に深い傷を与える言葉や不快感を与える言葉が出ます。さらに、度々テレビが見せるように、救援部室を配る時、ほんの少しの水と何粒かのお米の為に、飢えている人がお互いに争って仲たがいすることも明白です。 刑務所の中の暴力についてどう言えるでしょうか。囚人に対しての看守たちの暴行があり、そして囚人たちのお互いの暴力もあります。

   いつも、どんなところでも、助けを必要な人を無視する人や、或いは最も弱い人を虐待し軽蔑と侮辱の言葉を言う人もいます。こんにち、良い羊である私たちも、明日、簡単に鋭い角を持っている山羊、或いは食い尽くす狼のようになるでしょう。その為に今日、私たちが皆「父の祝福された者」となるように招かれています。「父の祝福された者」はキリストを真似て、キリストの名によって兄弟姉妹の世話をとしますから、天国の遺産を頂くのです。

   メデアとテレビは毎日飢えていて、苦しんで死んでしまう世界の人々を見せます。今日、誰も「知らなかった」と、言う事が言えないでしょう。「私たちの死の日には、私たちが皆、示された愛に基づいて裁かれるでしょう」と、十字架の聖ヨハネが言いました。私たちがカトリック、プロテスタント、ユダヤ人、イスラム人、信仰者、無神論者であるかに付いて、神は絶対に尋ねません。むしろ、「あなた方が生きていた時、愛することを学びましたか」と聞くでしょう。そこで、イエスは忠告します。人を無視して、ただ自分の為だけに生きた人は、神の国に絶対に入れません。

   しかし、気をつけましょう。大切なのは、「神の愛」の為に、人に対して、一瞬の間にだけ、兄弟の姿を借りることではなく、また、谷間にいる人のうちに「苦しんでいるキリストを見る」ことでもありません。「最も小さい者」が 私に似ているからこそ、私たちは彼を兄弟として迎え入れる必要があります。この人は金持ちであろうと、貧乏であろうと、文化、宗教、人種が違っていても、この最も小さい人が、助けが必要だから私たちは兄弟として単純に歓迎しなければなりません。

  キリスト者である私たちは、何回も今日のイエスの教えを聞いたり、読んだり、理解したりしたことでしょう。ですから、「知らなかった」を決して言えません。 私たちは、愛徳を現わすことによって、主の前で自分の信仰が生き生きとしていることを表す必要性があります。 実に、キリストは、いつも最後の場所を取っています。世の終わりの審判者であるイエスは、私たちの間で、最も小さい、最も貧しい人です。もし、この世で、生涯にわたって、兄弟姉妹を通してイエスを助けよう、見ようと学んでいたなら、最期の日、神の前に出る時、私たちは、もう、既に、イエスを知っていたと分かるでしょう。

  審判についての預言的なキリストの教えは、寛大さを持って、精一杯生きる招きであります。 永遠の命は、今日、与えられています。 きっと、キリストは良い牧者として、私たちが死ぬ日に迎えて、歓迎するでしょう。 何も恐れずに、私たちはイエスの前で立つことが出来るでしょう。 何故なら、キリストは 私たちが持っている物事を見るでしょう。 即ち、私たちの無欲な愛、兄弟的な分かち合いの努力、人間関係の素晴らしさ、他人の為に捧げられた時間、弱い人に与えた歓迎、そして、平和と正義の為に私たちが選んだことをイエスはよく見るでしょう。 このような天国のパスポートを持っていない人が、自分の手に残るのは 風のようなものと役に立たない弁明の言葉だけです。 キリストの御体と御血をいただくことによって、私たちがいつも肝心なものが何であるかを理解して、それを実現する力となりますように。 アーメン。




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